『時計じかけのオレンジ』は後世の映画作家たちに絶大な影響を与えたが、同時に非常に危険な作品でもあった。観客は暴力とセックス渦巻く世界に引き込まれ、次第に倫理観を突き崩されていく。キューブリック監督はこの作品で人間の持つ正義や道徳に真っ向から挑戦した。公開当時、影響を受けた若者たちが数々の暴力事件を起こしたことで社会問題となった。事態はますます酷くなり、キューブリック監督のもとに殺害予告や脅迫状が大量に送られてくる事態に発展。そして1972年、アーサー・ブレマーがアラバマ州知事ジョージ・ウォレス暗殺を企て逮捕された。後に見つかった彼の日記には「『時計じかけのオレンジ』を見てずっとウォレスを殺すことを考えていた」なる記述が発見された。この事件はポール・シュレイダーに強い衝撃を与え、『タクシードライバー』の脚本の着想の源となった。
様々な影響をもたらした『時計じかけのオレンジ』は、アメリカでR指定を超えるX指定(17未満鑑賞禁止)で公開され、イギリスでは26年間もの間、上映を禁止された。いわくつきの作品として知られるようになった本作は、危険な影響力がある一方、それだけ人々の心を抉り出す本質が描かれていたのかもしれない。
出典:imdb.com
ファーストカット、映画は邪悪な表情を浮かべるアレックスの顔のアップから始まる。彼は札付きの不良少年で悪行の限りを尽くしていた。彼とその仲間はモロコミルクバーという酒場で麻薬入りの飲み物”ミルクプラス”をぐっと飲み干し、夜の街へと繰り出していく。ホームレスをリンチ、ギャング同士の乱闘、自動車での暴走とやりたい放題。そして作家夫婦が住む家へ強盗に入る。夫婦を激しく暴行した挙句、作家の妻を犯すのだ。このシーンの暴力描写はすさまじいものがある。アレックス達は『雨に唄えば』でジーン・ケリーが歌う『 Singin’ in the Rain 』を口ずさみながら、暴力の快楽に身を委ねる。
このバイオレンスとセックスが入り乱れる冒頭で、観客も不快感を感じつつ暴力の快楽を無意識的に体験する。次第にアレックスに嫌悪感を抱きつつも、その魅力に惹かれていくのである。彼は残酷で無慈悲、それでいて奇抜なファッションとベートーベンをこよなく愛するハイセンスな一面もあり、頭がいい。自分自身に決して嘘はつかない、至極正直な彼の無軌道っぷりに観客は一種のあこがれを抱くことだろう。
しかし彼の好き勝手も長くは続かない。一人暮らしの女性の家へといつものように強盗に入る。ところが仲間たちから裏切りに合い、アレックスは逮捕されてしまう。逮捕されたアレックスは政府の更生プログラム”ルドヴィコ療法”を受けることとなる。これにより暴力とセックスをすること、そして彼がこよなく愛していたベートーベンの第九を聞くことで、吐き気を催すよう身体的に矯正されてしまう。政府により見えない拘束具をまとわされたアレックスは「更生」したとみなされ、二年足らずで釈放となり、家路につく。
出典:imdb.com
ここからがアレックスの地獄の始まりだ。家に帰ると両親は養子をもらっていて、彼の居場所はなかった。帰る家を失ったアレックスは一人町をさまよう。そこに一人の物乞いがやってくる。しかしその物乞いはかつてアレックスが面白半分でリンチしたホームレスだった。ホームレスたちに取り囲まれ、今度は自分がリンチを受けるアレックス。その場に二人の警官がやってくる。助かったと思ったのも束の間、彼らは以前一緒に暴れまわり、アレックスを裏切った仲間だった。彼らからも激しい暴行を受け、身も心もボロボロになった彼がたどり着いたのは一軒の見覚えのある家だった。だがその家もかつてアレックスが強盗に押し入った作家夫婦の家だったのだ。最初、作家の男は気づかず同情するが、アレックスが『 Singin’ in the Rain 』を風呂場で歌っているところを聞かれ、正体がばれてしまう。そこで復讐としてアレックスを閉じ込め、聴くことが出来なくなった第九を無理矢理聞かせて拷問するのである。
ルドヴィコ療法により強制されたアレックスは堕ちるところまで堕ちていく。因果応報とも言える展開だが、観客には一切のカタルシスをもたらさない。むしろ非常に強い不快感と、居心地の悪さを感じることになる。ここで観客は少しずつ感じていた倫理観に対する疑問をはっきりと突きつけられる。
自由はどこまで許されるのか?
そして冒頭で感じていたバイオレンスによる不快感はバイオレンスその物に付随した不快感だけだったのか?
自分自身のなかに眠る暴力衝動に対する内なる恐怖から来たものではないのか?
そして復讐の快感に文字通り身を震わせながら、邪悪に笑う作家の男の顔は、冒頭のアレックスのファーストショットを思い出させる。彼の中にもアレックスが眠っていたのだ。アレックスは拷問に耐え切れず飛び降り自殺を図る。一命を取り留めた彼は、自殺を図った時の衝撃で元に戻るのである。そしてスローで裸の女と抱き合う彼のショットで映画が終わる。
「完ぺきに治ったね」
このアレックスが戻る瞬間はモラルを超越させ、私たちにとてつもないカタルシスをもたらすのだ。
この映画に対して、暴力賛美の不愉快な作品とこき下ろす批判はもちろんあるかもしれない。事実、模倣犯による事件がおきているのだから…
しかし、注目する重要な点はもっと他にある。
それは人は常に選択できるということだ。
正しいことをするのも間違ったことをするのも選択の自由がある。
人間の精神はどこまでも自由であり、その自由こそが人間なのである。人として正しい行いをするのも人間であり、間違った行いをするのもまた人間なのだ。
なぜアレックスの暴れまわっている姿は我々をそこまで高揚させるのか?
それは彼が絶対的に自由だからである。
彼自身が自らの自由意思で悪徳の道を選択したのだ。己のよきものだけに従い、誰からも干渉を受けない。圧倒的な自由を謳歌し、生の喜びを誰よりも享受する。
我々は暴力と快楽の混沌の中に放り込まれ、邪悪に微笑むアレックスの瞳の中に自分の姿をはっきりとみるだろう。
偽善と自己愛に塗り固められた現代人の「モラル」が音を立てて崩れ落ちたその時、恐怖と不安、そして自由な魂の喜びが歓喜の歌の祝福と共に訪れるのだ。
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