基本情報
ジャンル 任侠・アウトロー / ドラマ 製作国 アメリカ 製作年 2019 公開年月日 2019/11/15 上映時間 210分 製作会社 配給 Netflix レイティング PG-12
スタッフ 監督 マーティン・スコセッシ 脚本 スティーブン・ザイリアン
キャスト 出演 ロバート・デ・ニーロ アル・パチーノ ジョー・ペシ ハーヴェイ・カイテル
引用元:(キネマ旬報映画データベース)
”1927年の発声映画の誕生以来、非常に大きな変革の時がやってきた”
-マーティン・スコセッシ-
『タクシードライバー』、『グッドフェローズ』など様々な傑作を世に送り出してきた巨匠マーティン・スコセッシ監督による新作『アイリッシュマン』が2019年11月27日Netflixにて遂に配信を開始した。
旧知の仲であるロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、ハーヴェイ・カイテル、さらには『ゴッドファーザー』のアル・パチーノまで加え、アメリカギャング映画を牽引してきた錚々たる面々が一堂に会する本作は、Netflix映画にも関わらず、上映時間は4時間弱にも登り、制作費は150億円超、スコセッシ監督フィルモグラフィー史上最大規模の超大作となった。ニューヨーク映画祭でワールドプレミアが行われるや否や、超大手レビューサイトRotten tomato では、批評家支持率100%を叩き出し、世界中の映画ファンの期待を煽った。そんなスコセッシ監督渾身の本作は『グッドフェローズ』や『カジノ』同様今回も実録犯罪物。
出典:imdb.com
チャールズ・ブラントンの実録小説『I heard you painted houses』を元に30年間マフィアの殺し屋として暗躍した実在の人物フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)の回想から、60年代アメリカにおいて、大統領の次に権力を持っていたと称される全米トラック運転手組合のトップだったジミー・ホッファ(アル・パチーノ)とマフィアとの関係、そして彼の突然の失踪について真相に迫っていく…
演出スタイルの変化について
スコセッシはギャング映画の巨匠として知られてきた。彼は本物のギャングが犇めくニューヨークのリトルイタリーで生まれ、幼い時から彼らを間近に見て育ってきた。そして彼は次のように語っている。「私が生まれ育った場所では真面目に仕事をしているような者より、ギャングと聖職者が最も尊敬され、憧れの対象だった」。
この彼の価値観は作品の中で度々見られるが、如実に現れているのはやはり代表作の『グッドフェローズ』だ。”良識的”な人々を徹底的に笑い飛ばし、欲望の赴くまま、暴力が支配するアウトローの世界を魅惑的に描き出した。モラルや常識なんてものは彼らの中には存在しない。彼らの世界は純粋な欲望であり、即物的な暴力であり、社会から逸脱した圧倒的な自由がそこにある。欲しいものがあれば力で奪う。文句のあるやつは叩きのめす。
出典:imdb.com
そうした京楽的なアウトローたちの生き様を映画的手法で見事に圧縮し、たったの2時間半で”人生”を走馬灯の如く、熱狂的な勢いで一気に見せていく。2013年の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で彼はすでに71歳だったにもかかわらず、『グッドフェローズ』よろしく、息付く暇もない疾風怒濤の語り口は健在で、一種の狂気をも感じさせた。
そんなスコセッシが再びギャング映画を撮ると聞けば、またしても無法者たちが欲望任せに乱暴狼藉の限りを尽くす、エネルギッシュで快楽主義的な世界が描かれることを期待したファンも少なくないだろう。しかし今作はスタイルを一変。これまでの血湧き肉躍る犯罪世界から、一人の男の人生における後悔と懺悔、そして老と時代の変革を厭世観たっぷりに壮大な叙事詩として描き出した。
バイオレンス描写から見る変化
こういったスタイルの変化は、暴力描写にもよく表れている。スコセッシの作品ではリアリズムを追求した生々しい暴力が描かれてきた。孤独と劣等感から社会への憎悪をつのらし、暴力的な狂気へと向かう『タクシードライバー』のトラヴィス、内から湧き上がる暴力衝動とそれに伴う贖罪を描いた『レイジングブル』、そして『グッドフェローズ』、『カジノ』で突発的で獣性剥き出しの圧倒的な暴力をやってみせたジョー・ペシなど、非常に強烈なキャラクターたちが印象的である。そして彼らの暴力は常に強い感情からもたらされてきた。怒りの感情に任せて突発的に誰かを激しく殴りつける彼らの姿は、非常に恐ろしい存在であると同時に、自らの感情に至極正直であり、裏表がないある意味で純粋なものとして存在する。そして彼らがその圧倒的な暴力でもって誰しもが持つモラルや常識を完全に破壊し尽くす時、我々に強いカタルシスをもたらすのである。
出典:imdb.com
しかし今作ではどうだろうか?フランクはマフィア組織から命じられ、次々にターゲットを処刑していく。そこには一切の感情は存在しない。黙々とマシーンとして、殺しを請負い実行していく。撮り方もこれまでのダイナミックなカメラワークではなく、引きのショットで淡々と”作業”をこなすフランクを冷然と捉える。つまりこれまでのスコセッシの作品にあった”感情的”暴力は完全に排され、徹底的に”無感情”な暴力が展開していく。こうした無味乾燥な暴力はこれまでの、社会的規範から逸脱し、世俗への反逆としての暴力から、それと相反する社会的基盤がもたらす暴力として描かれる。フランクにとって殺しはただの仕事。淡々とつまらなそうに仕事をこなし、家に帰り、また次の仕事へ。社会に生きる我々は、なんらかの組織に属している。家族、学校、会社、国家…。これらの組織には必ず規範が存在し、秩序を保っている。だからこそ我々には絶対的な自由を享受することは決してできない。ギャング組織の規範の中で生きるため、感情を殺し、自分に嘘をつき続け、命令通り仕事をこなす彼の姿は、社会から逸脱したギャングとしてではなく、普通の社会規範の中で暮らす我々と何ら変わりがない。
出典:imdb.com
人間は自らの責任がなければ何でもできてしまう。一度”それ”が許される規範の中に身を投じると、人は思考することを放棄し、どこまでもその残虐性を発揮する。この残虐性は、社会的なシステムによって保証される。フランクが殺人を初めて経験した大戦中、彼は戦争という社会のシステムの中で殺しを行うことで、感情を殺した。そしてヒットマンとしての仕事を回想していく中でも彼は言う「まるで軍隊のようだった」と…。
システムがもたらす思考停止は、いつのまにか兄弟のように慕っていたジミー・ホッファを自らの手で殺さなくてはならないという結末へと向かっていく。社会的な”規範”の中で生きる我々は、いつの間にか思考するのをやめ、事実から目をそらし、知らないうちに取り返しのつかない大罪を犯しているのかもしれない。死期が迫り、彼は自らの人生を振り返っていく。そして彼の中で罪の意識が在々と浮かび上がってくるのだ。刑務所の中で年老いたフランクとボスのラッセル(ジョー・ペシ)は歯がなくなった口で必死にパンを食べながらいう。「ジミーはいいやつだった… 」と。彼らが自分自身の犯した罪と向き合うのにはあまりにも遅すぎたのである。本作はギャングの世界を描きつつも、常に社会に翻弄され、自分自身が何者なのか常に悩み続ける我々にとって、誰しもがもつ普遍的な罪悪を厳しく突きつけるのだ。
スコセッシが語るシネマの変革
そして本作のもう一つのテーマが時代の終焉と変革だ。先述の通りスコセッシはこれまで、ある人物の半生を限られた上映時間の中で巧みに描き出してきた。そこで毎回描かれるのは、栄枯盛衰であり、本作ではそれに伴う”老”というものが一層強調されている。年老いたフランクはその荒涼とした空虚な人生に深い後悔の念を抱き、最後は神に赦しを乞う。
監督のスコセッシだけでなく、再集結した俳優たちは皆超高齢。スコセッシは78歳、デニーロは77歳、ジョーペシは78歳といった具合だ。しかしこの超高齢キャスティングはかつての往年名優を集めた、スター映画だという以上に意味がある。スコセッシは本作で映画人生を共に歩んできた彼らと自己省察を試みた。そしてアメリカン・ニューシネマの旗手の一人でもあるスコセッシが、同時代に活躍してきたパチーノを迎えることで、彼らが起こした映画革命によって開かれた”シネマ”の終焉と変革を予感させるのだ。
出典:imdb.com
スコセッシは語る。「今映画界で起きているのは、1927年発声映画ができて以来の非常に大きな変革である」と。
去年、スコセッシはマーベルシネマティックユニバースに対し、「あれは”シネマ”ではない、テーマパークだ」と発言し、非常に大きな波紋を呼んだ。昨今の劇場は、ド派手なVFXと仰々しいコスチュームに身を包んだスーパーヒーローたちが群雄割拠するアメコミ映画に魅了される観客達でごった返している。一方でスコセッシを始めとした往年のフィルムメーカーたちが人生をかけて描き続けてきた古き良き”シネマ”は行き場を失い、この”テーマパーク”の台頭よって劇場から締め出しをくらいつつある。そして時代の変革と共に映画の鑑賞のあり方も変容し、劇場そのものの必要性も希薄となってきた。本作も巨匠スコセッシ渾身の一本であったはずだったが、Netflix映画として制作され劇場公開は短期間にとどまった。
しかしスコセッシはこうした現状に対して単に悲観しているわけではない。今回、最新のVFX技術を使い、主要キャスト3人を若返らせている。このCG技術は、『スター・ウォーズ』で有名なインダストリアル・ライト&マジックが担当し、自然なデジタル処理により見事な若返りを実現している。本作でこの若返りCGを使用したことは非常に重要だ。
出典:imdb.com
主要キャストの一人ロバート・デ・ニーロはこれまで、デニーロアプローチとして知られる過激な肉体改造により、完璧な役作りをすることで有名である。特に同監督作品『レイジング・ブル』では、伝説のボクサー、ジェイク・ラモッタの半生を演じるため、最盛期ではボクサーの引き締まった美しい肉体美を披露し、晩年期ではでっぷりと太った情けない身体を作り上げた。短期間で劇的な体型変化を遂げた彼の演技は、狂気にも近い執念を感じさせた。こういった肉体改造という非常に過酷な役作りによって、俳優魂を見せてきたデニーロ自身を、今回最新の技術を使って、若返えらせているという点は、単に作劇内の時代考証のためだけではない。この試みは、膨大な制作費を投入し、これまでの肉体改造やメイキャップでは不可能だった領域まで変身を可能にした。
そしてこの旧来の方法にとらわれない、常に新たな映画のあり方を模索し、可能性を追求する姿勢は、彼が信じる”シネマ”を守っていくだけでなく、新たな変革を受け入れ進化しようとするスコセッシなりの決意表明ではないだろうか?誤解されているが、アメコミ映画に関しても彼は否定しているわけではない。あくまでも彼が作ってきたような映画と区別しているだけであって、新たな表現媒体であるとしっかりと認めているのだ。事実このインダストリアル・ライト&マジックの技術は、マーベル・シネマティック・ユニバースの映画でも多く使われているのである。
ラストシーン、扉を少し開けといてくれとたのむフランクは、凄然と扉を閉ざした『ゴッドファーザー』のマイケルとは対照的だ。これは、実に人間臭い弱さが垣間見えるスコセッシらしい演出であるのと同時に、現在の映画界がみせる変革によって、新たな可能性へと開かれた扉なのかもしれない。昨今ではアルフォンソ・キュアロンからコーエン兄弟、デヴィッド・リンチまで多くの映画作家たちがNetflix作品に参加し、日々新たな可能性を追求している。
そして世界の巨匠が送り出す威風堂々たる風格を備えた本作は、この流れを決定的に方向づけた。スコセッシたちによって開かれてきたニューシネマによる映画革命の扉は、新たな姿に形を変え、本作で映画のもつ無限の可能性へと続く扉を彼はもう一度開いてみせたのである。
出典:imdb.com
<参考文献>
・デイヴィッド・トンプソン イアン・クリスティ 編 宮本高晴 訳 『スコセッシ オン スコセッシ 私はキャメラの横で死ぬだろう』(フィルムアート社)
・『アイリッシュマン』に見るディエイジングのVFX技術
・『監督・出演陣が語るアイリッシュマン』2019年 NETFLIX
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